美幌町 ラーメン かまじい


■第1章 『一杯のラーメン』

 平成18年11月3日いよいよ不安だらけのオープンの日です。コクのあるさっぱりスープを目標に完成したこのアゴだし(飛び魚)ラーメンは果たして世の中に受け入れてもらえるのだろうか?

 地方紙には載せてもらったけれど、住所も電話番号も載せてないし、地図等も…どうなることやら?と思いながらスタートして早いもので八ヶ月になります。
 その間口コミ始めお客様がインターネットで紹介してくれたり地方紙のミニコミ紙に取りあげてもらい、どうにか営業を続けさせて頂いております。ありがたい事です。

 確かにあらゆる面で苦しさはあるのですが、とても楽しく今までの人生の中で一番幸せな時間が流れているのかもしれません。こんなにも日本人の中にラーメン文化が確固たる地位を築き上げられている事に感動さえ覚えました。一杯のラーメンを食べに何時間もかけて車でご来店される方・子供にせがまれ付いてくるご両親など…美味しいものとの出会った瞬間のナント素敵な笑顔になるのだろうか!その笑顔が見たくて毎日老体にムチ打って頑張れるのです。
 皆さん本当にラーメン好きで人それぞれポリシーをお持ちであり、ラーメン談義に夢中になった事さえあり、更にたのしさ倍増中。

 親子連れの中に、子供が「mamaおかわり!」「イヤッ、まだ食べるのかい?お母さんの分ナイショ」「すいません…麺だけってもらえますか?」という事が何組か続いた時、子供にウケるという点では合格だなぁ!と。
 そんな折、お客様のアドバイスとご協力でホームページを作ってみようかと思い、もっと広く世間に宣伝してみたくなりました。私のラーメンはこれからが旬であり、まだまだ広まってはいない時だからこそ絶好のタイミングだと思いました。そして《ラーメン倶楽部》も設立し第二の人生にオリジナルラーメンを手がけたい人たちに呼び掛け、小さなラーメン店を経営しながら将来オリジナルラーメンに挑戦しお互いの成果を持ちより、元気な年寄り同志が和気あいあいとできる年寄り倶楽部にし、残りの人生に「一杯のラーメン」を通し生きがいを共有しまた新しい出会いが出来る場所にしたい。ヨ〜シッ、ヤッタルで!まだまだ呆けてられないぞ!



■第2章 『開店までの軌跡』

 人生の岐路 平成16年3月は、雪解けもはやくまさに春間近の暖かさでした。その日も隣町の北見市にある農機具会社へいざ出勤と車を走らせていました。「いやぁ!今日は事故車を二台も見てしまった。」と出勤時にはその程度の感想しか持ちませんでした。打ち合わせも終わり、いざ出陣!と営業活動開始。しばらく走るとまた事故車だ、なんで?それも今度も向かって右側だけがつぶれ、ペシャンコ状態である。不思議な日だなぁ…と感じたのはそこまでで、車を停めて対向車を見たらどの車も右ペシャンコ車でした。「目…頭?がおかしいんだ」と確信し、午後から市内の私立眼科病院へ直行しました。診断結果はうちの病院では診きれないので紹介状を書くので日赤病院へ行って下さいとの事、オイオイオ〜イッ!不安になるだろうが!(桜塚やっくんのパクり)
 
翌日日赤へ、余りの混みように半日がかりでした。病名は『眼底出血』で「眼球の奥にあるスクリーンの中心より多少ずれた位置から出血していて、そこに映像が重なる時、乱れた映像になる」のだそうである。
 治療方法は「レーザーで焼くのは簡単ですが、視界の中に最初は黒い点が現れ、年齢とともに黒い部分は広がり将来は見えなくなると思います。気長に投薬治療をお勧めします。」
 原因は「ストレス」。何回か通院している内に知り合いも出来、病気の情報交換もあり失明した話も聞き、健丈者が肉体的にハンディを負うというのはいかに大変か、考えさせられっばなしでした。
 待ち時間が非常に長いために考える時間はいっぱいありました。自分にはいつも尊敬してやまない妻や素晴らしい子供たちに恵まれ、子供たちは皆独立し五人の孫と、本当に幸せ者である。そんな中、「人生とは?」と考え始めた時『終焉』『足跡』という事が頭から離れなくなったのです。



■第3章 『終焉(しゅうえん)』

 自分の体も壊れる事があるんだなぁ…」。
 盲腸以外病気らしい病気もしたことがない私にとって五十歳を過ぎ、どのような最期を向かえるのだろうか?という考えが頭から離れなくなりました。
 数年前、父親が病院のベッドの上で『大動脈瘤』破裂で私の手を握りながら「起こせ、なんかおかしい」と言う言葉を残して、あっと言う間に千の風になっていきました。
 最近では終焉はあれでなくてはいけないなぁ!誰にも迷惑かけずにボックリ…いきたいものだと考える様になりました。

 何故?原因は隣町の特老に25年間も寝たきりの88歳になる母親の姿を思う度に身につまされるのです。あれは母63歳、仕事をやめ家庭に落ち着いた頃から起こり始め、転がるように母から記憶を消し去り奇行へと駆り立て、誰も信じられず(いや信じたくなかったのかも、若すぎて)、
妻だけが冷静に観察しアドバイスをくれ、病院へ連れて行く事になりました。
 地元では判らず、日赤病院で始めて『アルツハイマー』と診断されました。結果的には母親は隣町に新しく出来る特別養護老人ホームに入所出来たから良かったものの、家庭崩壊の危機だったのです。約3年間父親が面倒を一人でみながら、病院等へは地元に住んでいる私が担当していました。最初の内は普通の会話が成立する時としない時があるために、付き合い方が非常に混乱したりしました。父親もそうだったんだろうと思います。時々ストレスが溜り爆発したのでしょう、母親の左耳を何針かぬう位に怪我を負わすこともありました。私が母の行動で一番印象深かったのは、ほとんど記憶が無くなりかけた頃、病院に行った時検尿の際トイレに連れていき、ズボンを下げようとしたら正気に戻ったのかと思うくらいに恥ずかしがる姿に驚かされました。
 あれから二十五年寝たきりになり丈夫な心臓のおかげで生きながら得ております。ありがたい事に床ズレひとつ無く週二回温泉に入れて貰い、何不自由なく(?)暮らしております。このようにはなりたくないのです、私は。最大限の抵抗をしようと決めたのです。例えアルツハイマーが遺伝だとしても、若いときから私や兄姉にも手にアルツハイマーを示す斑点があるとしても、呆けない様に心臓が止まるまで働き続け誰にも迷惑かけずポックリと千の風になりたいと考える様になりました。
 残念な事に67歳になり仕事をやめ、年金生活を始めたばかりの長兄は軽度のアルツハイマーと診断され、子供たちの名前すら分からなくなっているとの事!ショックです!



■第4章 『キッカケは爆発低気圧』

  1週間に1回程度の通院検査と薬を貰いにいき、瞳孔が開きっぱなしになる目薬をさして検査をするために23時間運転が出来ませんでした。そんな折の3月下旬、この北見地方に台風なみの爆発低気圧の猛威にさらされました。猛吹雪には慣れっこになっていましたが、雪風の量・強さは朝から異常であり、出社はしたものの当然仕事にはならず、午後2時頃国道閉鎖。遠回りではありますが、津別を抜けて帰る方法しかなくなり早退をしました。美幌支店からも北見へ帰る社員がいて同じ道を通るため状況を連絡しながら帰路につきました。案の定、今までの人生の中で最大級の暴風雪であり、交通渋滞となりいつもなら45分位の距離を五時間以上かけて帰宅することになったのです。途中猛吹雪の中何台も衝突事故を起こしていました。それから3日間は仕事にも行けず、家がつぶれないために朝の5時から除雪に追われ、道路などは雪山と化し、晴れても除雪車はいつ来るのやらと言う状況でした。妻は勤務先の福祉施設から帰れず2日間泊まる有り様でした。
 4日後、久しぶりに出勤といつもの道を行くと、春間近は真冬へ逆戻りでした。道幅は狭く、吹きだまりの所は絶壁状態に除雪と凄まじい雪の量と重たい雪質がいかに除雪車の行く手に立ちはだかったか容易に推察することが出来ました。あと十分位で会社という信号無しの交差点に差しかかった時、突然目が言うことを聞かなくなったのです。そこの交差点は左右には二階建ての家位の高い雪山ができ、徐行しながら前に進まないと左右からの車が来るか判らず右見て左見てもう一度右見て、「エッ?」。なんと、左の雪山が突然左からくる道の上に移動しているではないですか! それも鮮明に、もっと厄介な事に雪山から突然車が飛び出して来るのです。恐ろしくなり、前に進めなくなりました。バックミラーには十台近くの車が連なり、恐くてアクセルを踏めないのでハザードをつけ車外に出て手招きで後続車をやり過ごし、左右からも車が来ないこと確認し車に乗り込み左の雪山を恐怖しいざ前へ! その日上司に会社を辞める事を告げました。一ヶ月後退社です。



■第5章 『足 跡』

  妻にも帰宅後報告しました。彼女は私の人生の節目節目で「神のお言葉」ではないかと思うような名言をプレゼントしてくれ、次へのステップアップに勇気を与えてくれるのです。彼女は「おとうさん、命拾いして良かったね!」と、思いもよらない言葉から話始めたのでした。彼女は話を続け、「出血が目でなくて頭だったら、無理をして会社も休まず、病院も行かず、ある日突然最悪の状態になっていたよ。ましてお客様からの帰り、事故でも引き起こしたら大変だったよ!」『拾った命だもの好きなことやりなさい』。
 本当にありがたい言葉をもらい感激しました。

…と言ってはもらったものの、「好きなこととは何?」。残りの人生をかけて何をしたいのだろうか? 難問です。仕事を生き甲斐と考えてたわけでもなく、子供たち・家庭がそれでもなく、会社の歯車にすぎなかったんではないだろうか?何か残してこれたのだろうか?死ぬ間際にこれが自分の足跡です。と言えるものがほしいなぁ!と考えるようになりました。
 
 以前、『夫婦で小さなお店でもやりたいと考えた事が…』。 半分漠然と下調を開始したのです。退職後本格的に手打ちそば、ラーメン、移動クレープ等々、チェーン店も調べ始めた時に偶然、以前美幌の会社近くで旭川ラーメンチェーンを営んでいた人が網走で開業している事を聞きつけ話を聞きに行きました。そこで「お店を買わないか?」という現実的な話が急に舞い降りてきたのです。そこは前にはスーパーやパチンコ店等が立ち並ぶメインストリートで築4年と実に綺麗なお店でした。これも何かの縁なのかなぁ?

 資金面をクリア後、妻にも相談し承諾をもらい本格的に旭川本店にて修業開始となりました。7月から旭川本店では一週間残りは網走にて2ヶ月…。残念ながら当初の話では1ヶ月だったのに、何故? 後で判った事ですが、年間で1番売り上げの高い8月の売り上げを手みあげに引き渡すつもりだったのでした。結果的には1ヶ月で十分出来るようなり、当のMASTERはパチンコ三昧。奥さんに殆んど教わり週末だけご出勤でした。残り1ヶ月間は、教えるというよりアラ探しに終始!騙され感はヌグイされないものでした。9月より自分の経営となったのですが、手伝いという名目で前経営者の高給取りの奥さんを押し付けられる始末。



■第6章 『一人立ち』

 月より年末までは無我夢中で足元さえみえない状態でした。年がかわってからは手伝いの奥さんも断りパートの入れ替えもあり、やっと自分のお店という雰囲気になりました。2年目ともなると本格的にやり方から見直し、調理の際納得出来ない所、|塩は本店は伯方の塩なのにただの食塩を使い、味をごまかすために、中双糖を23粒入れる、}フライヤーの汚れたラードを何時間もかけて作った綺麗なスープの中にもったいないという理由で注ぐ等々…はいっさい止めたのです。お客様の評判だとか競合店の事が見えてくると、手作りスープを売りにしている割には差別化にもなっていない事(自業自得の部分も大きく!)に気づき始めたのです。逆に味、メニュー等はマンネリムードがいっぱい。それに経営者交代で売り上げが目減りしはじめ、それに拍車をかけるように富良野店(夜逃げとの噂)・北見店閉店し、端野店も…打開策を考えなければならなくなりました。

 私には過ぎたるものが二つあり、それは《妻》と《三人の子どもたち》です。この窮地にもアイデアのガイドラインは私が考え、妻が形にしてくれたお陰で味的に欠けていた辛い系一種類、メニューとしてつけ麺3種類・セットメニュー2種類・道内初メニュー2種類を出す事が出来ました。
 これだけ増やしても、妻と頑張り屋の定時制のパートの子でこなしてきました。それぞれのメニューにお客様もついてきましたが、決定的な対策にはならなかったのです。それはこの『暖簾』の下ではイメージ一新にはならないのです。そこで本店より専務が来店した時に、本心にある危機感をぶつけてみました。
 専務は、「私は馬鹿だからそんな企画力がないんです」と言い、再オープンした富良野店は餃子200円セールをさせるとの事。ラーメン屋がラーメンから目をそらしたら、もうお終いである。私はこのチェーン店からの脱会を決意しました。9月30日付けで閉店。その間にもアゴだしスープの研究・新しい味噌と麺の業者探し、スープに合う塩の選択等…11月オープンを目標に慌ただしい1ヶ月を過ごしました。人に恵まれ、良い物にめぐり会え、理想とするラーメンを完成する事が出来ました。あえて最初の広告には『ラーメンバカ 一代記』と入れようと決めました。


ラーメン かまじい
北海道網走郡美幌町東町1丁目5-17
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